超論 石川蓮

超論 21世紀の後半半世紀のニッポンを創る 石川蓮

1 「縦の絆」だけでなく「横の絆」で輝かしい未来を創りましょう!

 大量生産大量消費の時代は、一所懸命、目の前の仕事をかたづけることが目標でした。一所懸命も御恩と奉公と同じ鎌倉時代に出来た言葉です。12世紀から21世紀の今日まで一千年のあいだ同じパラダイムが通用してきたというわけです。「超論 3.10までのニッポン」で述べた「縦の絆」を拠り所とした「攻め」の考えです。

 話は脇道にそれますが、二0一二年度の芥川賞受賞者田中慎弥氏の発言の中に興味深いフレーズが有りました。母一人子一人の家庭で育ったという事ですが 「親孝行なんて考えて来なかった」という言葉がとても興味深く響きました。儒教的な忠義と孝行を大切にする考えとは違います。テレビを見て感じる限りで母上は、この母上という言葉も儒教的ですが、けっしてご不幸という印象は有りませんでした。親子以外に強い絆「横の絆」が有るからに違いないと、勝手に、そう思いました。

 儒教思想は組織を安定運営するには便利な考えです。御恩と奉公、忠義、孝行、一所懸命、いずれも武家社会で培われて来ました。親分子分も同じメンタリティーです。江戸末期には一時期廃れていたようですが、明治政府は中下級武士が中核を担っていたので、儒教思想を上手に使ったのでしょう。

 明治時代に西洋で、武士道が珍しがられるだけでなく重んじられたり、宮本武蔵五輪の書が経営書として読まれたのも当然のことだったと思います。宮本武蔵は戦乱の世に生まれなかったので、剣は剣術あるいは剣法というように洗練された文化になっていました。差し詰め西洋でのスポーツと同じだったのでしょう。勝ち負けが大切、ただ生命がかかっていましたが。。

 生命と言えば、生命は鉄砲の発明とともに自分事として感じられなくなりました。生命が数で表されるようになり、どんどん生命が軽んじられるようになった歴史があります。刃物とは違って、弾丸を撃った人に撃たれた人の痛みを感じにくいからです。大量破壊兵器になればなるほど無感覚になります。人を殺しているという実感が薄れます。

 武士の時代を産業社会という目で見れば、製鉄技術と金属加工技術という技術革新により農業が飛躍的に高効率化したことと裏表の関係になります。江戸時代になって、鎖国により海外の科学技術を .知らないまま過ごしましたが、藩単位の地域それぞれで、織物や木工(有機材料)鉄器(金属材料)陶磁器(無機材料)の各分野の他、食文化が幅広く深く発達しました。明治の開国後すぐに汽船や汽車を製造できたのは、高い教育レベルだけでなく、こういった職人力が培われていたからに違いありません。

 同様に売る技術である商法、マーケティングの面でも西洋各国を大きく凌いでいました。マーケティングという言葉が日本にもたらされて以来、なになにマーケティングが沢山紹介されましたが、媒体技術以外には目新しい事は有りませんでした。すべて江戸時代までに創られた知恵ばかりです。大型ショッピングセンターは巣鴨のような門前町商店街、通信販売やCRM顧客管理は富山の薬売り、近江商人、松阪商人などなどの知恵はマーケティングの全てを網羅して余りある印象さえ有ります。

 これからの時代は違います。いや今までと同じパラダイムでこの難局を脱する事はできないでしょう。東アジアの国々で埋没してしまうだけです。逆に考えれば、韓国も中国も同じ儒教思想が身についています。ですから、日本の来し方、成功も失敗も自分ごととして消化出来るはずです。日本的経済発展をなぞる事に困難は少ないのでしょう。

    司馬遼太郎梅棹忠夫など先人は日本の将来に大きな危機感をもっていました。先人の歴史観と社会観、そして今現実の世界、現地現物現人を深い洞察力を持って見極めた上で大胆な仮説を立てるしか方法は残されていません。意思を持つ際の寄って立つ価値観は、可能な限り私心を捨て人類社会が持続可能な方向性を見つけ出す事を旨としなければなりません。そこには確固とした信念と何物をも恐れない勇気と覚悟が必要となります。

    楽しい時代という反面厳しい時代でも有ります。これまでの時代はあたかも、檻に閉じ込められ自由が限定されつつも餌は与えられていた。今後は餌を自分で見つけなければならない。自分独りだけでなく周りの仲間も餓死の危険性をはらんでいる。自由だが責任の重い時代と考えています。

    独断と偏見しか持ち合わせておりませんが、日本人らしく力を合わせて乗り切り、そして次の時代に託すために、わたくしなりに先ずは仮説をこしらえてみたいと思います。「みんな」でわいわいがやがやを始めてもらうために。。   

・「縦の絆」による攻め一本やりの体制から「横の絆」による守りにも強い体制づくりが喫緊のテーマではないでしょうか。
    
    20世紀は争いの時代でした。インターナショナルやがてはグローバルの時代でした。

 20世紀の前半半世紀は戦争の時代でした。男性脳の時代でした。覇権の争奪そして資源の奪い合いのための時代、戦争の時代で半世紀を過ごしました。第一次世界大戦第二次世界大戦など多くの戦争を経て人類は学習をしたんだと思います。ユーロ圏の確立が象徴的です。

 20世紀の後半半世紀は経済競争の時代でした。目的は違いますが競争で有ることに違いは有りません。男性脳の時代でした。金融経済を人間がコントロールできるようにすることが経済社会だけでなく国際社会の学習すべき課題でしょう。

    どちらも戦いに違いないので、自らの正統性を示すために理論構築に執心つまり理論武装に励みました。あるいは神を持ち出し宗教の力を利用する場合も有りました。イデオロギー、なになに主義、なになに教の時代でした。

 しかし経済学の無力化が象徴しているように、21世紀に入って、過去の経験を元に構築した理論は役に立たなくなりました。歴史が同じ流れで動いていない、延長線上で物事が語れない、予測できないからです。未来を予測する、そのこと自体が意味をなさなくなってしまいました。経済に関していえば、売り場データを網羅的に蓄積集計している日本経済新聞社のようにコンピュータを活用した大量データそのものによる現場把握を根拠として考えることになって行くのでしょう。とはいえクラウドビッグデータというキャッチフレーズに与するものでは有りませんが。。

   文明は男性脳、文化は女性脳に依存する。極めて大胆な仮説を立てますと、
20世紀は文明優位、文化劣位の時代でした。文化が文明尺度で測られ優劣がつけられてしまった時代でした。優劣をつけること、勝ち負けを決めること、そのものが男性脳かもしれません。女性脳は平和や安心、つながりを希求します。

   守りより攻めが優先されてきました。攻撃は最大の防御なり?か。しかし守りが弱いので、無残にも天災に徹底的に打ちのめされました。さらに文明の利器の最たる、原子力にまで製造主たる人間が痛めつけられてしまいました。神の存在を信じている人々はどう受けとめるのでしょうか。近い将来、東日本だけでなく西日本も巨大地震巨大津波に襲われると予測されています。日本人ほとんど全てが他人事でなくなります。しっかりした守りの体制を築いておく必要があります。

   攻めの時代、文明優位の時代。「縦の絆」の時代。それは日本では武家社会の始まりから今まで続いて来ました。だからこそ明治維新をすんなり受け入れる事ができたのではないでしょうか。福沢諭吉学問のすすめが共感を持って受け入れられ、論理的な体系的な学問に偏ってしまったのではないでしょうか。

    攻めにはリーダーを筆頭に一糸乱れない体制が最も力を発揮します。命令系統のしっかりしたピラミッド構造です。ウィンストン・チャーチルが見切っていたように、日本には秀でたリーダーがいないばかりか、軍隊組織も欧米から見れば子供同然のようです。欧米のような契約社会は情が入る余地が少ないので戦いには適しています。

 日本は武士の時代に北条政子の述べた御恩と奉公の小さな上下の三角形「縦の絆」が起源になっています。情でつながっています。御恩と奉公は人と人との関係だから上下の三角形「縦の絆」です。戦国時代に遷っても基本は上下の三角形つまり一族郎党が単位となり、それを連ねてどの大名も組み立てられていました。専制君主的な強いリーダーシップを持った織田信長でさえ、秀吉の一族郎党をかかえていました。秀吉の下に秀次や竹中半兵衛一族とか加藤清正一族が連なっていました。欧米の軍隊とは成り立ちが全く違っていたようです。

 明治維新になってようやく陸軍・海軍は西洋式の隊形が整えられましたが、メンタリティーはそのまま残ってしまったようです。想像ですが、小さな上下の三角形がいくつもできていたと思います。本音と建て前の本質はここに起因していると思います。

 今も変わりません。現在の政党構造を見れば一目瞭然です。自民党政治もいくつかの小さな上下の三角形を積み上げ、派閥としてまとめた形で成り立っていました。これを否定しようとした民主党も本質的には変わりがありません。どれだけ多くの三角形を集めるかが政治を決め手になっています。

 二大政党とはいえ、アメリカの共和党民主党とは質において全く異なります。基本的な理念を異にしています。組織も日本とは違い、利害の違い、契約関係を元にした組織になっていると想像しています。そもそも政党の成り立ちがそれですから。

 日本には大陸とは少し違って圧倒的な権力を持ったリーダーが現れませんでした。何事も「みんな」で成し遂げるというメンタリティーとうまく融合して現在に至っています。

 東日本大震災には今までの体制では対処できません。攻めしか考えていなかったからです。とはいえ官僚組織という、効率的ではあれど形式化しがちな形態が定着してしまったからです。ましてや右肩上がりの時代が続き、攻めかたさえも形式化していました。

 守りに強いかたちとして、ヒントはウエブ型ネットワークに有ります。現在のインターネットに相当する情報ネットワークはフランスに出来上がっていました。大型コンピュータを中心にした放射型ネットワークを持ったミニテルです。しかし防衛、軍事を前提に考えると、センターを複数化する必要が有りますが、いくら分散してもキリがありません。究極の姿が無数のセンターを蜘蛛型ネットワークでつないだウエブ型ネットワークです。ハードウエアの小型高性能化とソフトウエアの多層複雑化が必要でしたが、結果的には極めて効率的な情報ネットワークが出来上がりました。当初は有線でしたが携帯や無線LANなど無線通信も同じ考え方で構成されています。

 エネルギーも同じです。多極型ネットワークを構築していくことで、電気自動車や企業の自家発電機や家庭用燃料電池など多極発電機を構成すれば災害などトラブルにも強い電力ネットワークが出来上がります。余談ですが自動車が電源になるということが発見されたのは中越地震の時でした。現地におもむいた報道用自動車にエスティマハイブリッドが有ったため、電源に困っていたテレビ局の方が自動車の電源を使って、カメラなど放送機器を動かすことができて地震の現地報道が可能になったそうです。

 スマートフォンやスマートシティ、スマートコミュニティーとかコンピュータ利用を目的としたスマートなになに、が流行していてスマートグリッドもその中心にあるかのように見えますが確固たるコンセプトは見あたらないと感じています。技術起点の新しもの好きの仕組みを次々と拵えていくのがアメリカです。日本メーカーでも技術音痴のリーダーはそのまま信者になってしまっているのではないでしょうか。

 今回の震災で地域コミュニティーに注目が集まっていますが、これは人と人との多極連携です。平面型三角形の連携「横の絆」から成り立っています。

 政治や産業の形態も一極集中だけでなく「横の絆」による多極連携を検討する価値があります。

・次の時代への枠組みとして、一極集中から多極連携へのシフト、「縦の絆」に「横の絆」を加えることを検討してはどうでしょうか。



2  ライフサイエンスが「横の絆」を創り、多極連携を促進します

 最も進展が見られるのがライフサイエンスの分野です。医学や心理学そして生物学だけでなく化学や物理学まで動員した総合科学です。ヒトを理解する、より深く理解するのが目的ですので、当然と言えば当然です。全ての学問分野と知恵を総動員します。

  DNAの分析解明は民族や風土の説明に役立ちそうです。

 脳科学は脳内の血流を外から観察できる技術が発達して急激な進展を見せています。多くの仮説が有りますが、一番大きな発見は脳の可塑性です。脳細胞は減少するばかりで年齢を重ねるごとに退化する、というのが今迄の通説でした。脳は柔軟でその根幹をなす神経細胞は極めて柔軟で、脳以外の部位、手足や身体の変化に応じて変わるそうです。しかしどれ程脳内の様子が見えたとしても、脳のどの部位が活性化しているかという事しか分かりません。目など五感の入力に対して脳のどの部位が反応するか。せいぜい、時間的な経過、多段プロセスを経てどういう反応を示すか。その程度です。いくつかの仮説には疑わしいものが有ります。

 脳の研究で信じるに値するそのほかの研究成果は、女性脳と男子脳の際立った差異とミラーニューロンの存在くらいかと考えています。しかし大変な進化です。

 中澤新一氏が対称性人類学という著書のなかで述べていますが、仏教は宗教では無い。これは大変衝撃的でした。わたくし自身はどの宗教も信仰していない、というより、どの宗教も信じているという表現が適切なごくごく一般的な日本人ですが、この一フレーズがきっかけで宗教の事を学びました。自分事として表現すれば、ブッダ、ゴーダマシッダールタの教えは宗教では無い、になります。

四弘誓願(しぐせいがん)誓願というお経が有ります。

A 衆生無辺誓願度 (しゅじょう・むへん・せいがんど)。
B 煩悩無尽誓願断 (ぼんのう・むじん・せいがんだん)。
C 法門無量誓願学 (ほうもん・むりょう・せいがんがく)。
D 仏道無上誓願成 (ぶつどう・むじょう・せいがんじょう)。

わたくし流に解釈しますと

A 生きとし生けるもの全てを大切にしましょう。

B 煩悩をできるだけ抑えて暮らしましょう。周りの迷惑にならないように。

C 学びましょう。智識を蓄積するだけでなく血肉化できるまで深く考えましょう。

仏陀の教えを極めましょう。

です。ゴーダマシッダールタの伝えたかった事の真髄と受けとめています。

ライフサイエンスで説明すれば

人類も哺乳類など動物もさらに植物もDNAの構造に大きな違いは有りません。ちょっとした突然変異を重ねるうちに永い年月を経れば同じです。生きとし生けるものはどれもそんなに違いがあるというわけでは有りません。ミドリムシのように動物にも植物にも成れる生物をみれば分かります。葉緑素を得て光合成の出来る細胞はじっとしてても生きていけます。葉緑素の得られなかった細胞は餌を探して動き回らなくては生きて行けません。従って寿命も植物のほうが長くなり得ます。

人間は独りで生きていけない動物です。ミラーニューロンが活性化する、つまり他人が嬉しいと自分も嬉しくなれる生き物だからです。他人と一緒に生きる以上、自分の好き勝手ばかり言ってていてはうまく生きて行けませんよ。

どう生きたら幸せか、生きている間いつまでも考え続けましょう。少しでも良い明日を迎えるために。

このような教えに従っていれば幸福はいずれ訪れるに違いまりません。


様々な要素や条件、人種や民族、居住地域、年齢、教育など多くの違いの中で最も大きな違いが有るのが女性脳と男性脳だそうです。

どこに国でも生まれた赤ちゃんは、男の子はオモチャ、女の子はお人形だそうです。
男性脳はモノに関心が高く、女性脳はヒト、特にヒトとヒトのつながりに関心が高いそうです。

おそらく「縦の絆」は男性脳、「横の絆」は女性脳の得意とする分野ではないでしょうか。
家の外へ出て行って闘ったり、食料や土地を開拓したりする役割を持った男性脳と、家の中で育児や家事に集中することが多かった女性脳には、それぞれの経験、幾世代も経た経験により刻み込まれたDNAもあるような気がします。

ノーベル賞や世界の発明、歴史上の女性の活躍に注目してみると、男性脳は発見や発明が得意、女性脳は新たな言葉を紡ぎ出すのが得意、
こんな仮説を持ちます。

また女性脳は体験で乗り越える、別の表現で言えば現実的と言われます。
必要に迫られる場合は別として、女性脳はあまり読書をしないような気がします。理由は今が理論の時代だからと想像しています。
そういう意味でこの本は大きな挑戦と考えています。表紙をピンクにしたからと言って女性脳に読んでもらえるかどうか、底辺難しいテーマに挑んでいます。しかし、何かしら、女性脳特有の直感力に期待してはいます。

歴史もドラマ仕立てにすれば女性脳に関心を持ってもらえます。しかしNHKの「龍馬伝」と「坂の上の雲」への女性脳の反応を見ていて分かる事ですが描き方が大切だということも有ります。同じ戦いや戦争でも、女性脳はモノのリアリティーよりヒトとヒトとの関係のリアリティーに関心が集中するような気がします。

「超くるま社会」も男性脳が実際に形にして女性脳に目に見える形、体験できる形態にする必要が有ると覚悟しています。
本を読んでもらうだけで物事が進むとは考えられません。


このようにヒトへの理解が深まる事で多くの学問分野がつながります。先ず宗教と科学がつながります。最も交わりにくいと考えられてきた二つです。多くの学問分野がヒトへの深い理解でステップアップ出来ると感じています。推して知るべしです。多極連携「横の絆」創りが可能です。



























3  多極連携を目指して、まずは二極連携からはじめましょう

 大量生産大量販売から創造的産業社会への転換を目指しますが。今までやってきたことが間違っていたとか、古いから捨ててしまおう、ということではありません。異種併存が日本ならでは日本人らしい「までい」のやり方です。

 経済社会も多極繋がりを目指すべきです。まずはひとつの地域ともう一つの地域がつながり、強味を共有することからはじめます。

 政治も二極、民主党自民党と、選挙つまり競争ばかりを考えず、強味を共有することが可能だと思います。和して同ぜず、という言葉が有ります。民主党自民党と一つになることは好ましく有りません。選んだ国民の気持ちを尊重して欲しいからです。日本ならでは日本人らしい政治を追求してほしいと思います。日本の政治は政治家が良いとか悪いとかいう問題ではなく仕組みの問題だと考えています。原発事故を起こしてしまったのと同じ根深く硬い問題があります。その凝りを丁寧にほぐしていくことが、全てに共通するニッポンのテーマです。

 エネルギー問題も同じです。「いのち」一番ですが最適解を求めてきちんと合意を得ることが大切です。もちろんフクシマの再現は避ける緊急策は別です。多極連携エネルギーネットワークを念頭に置いて少しずつ「までい」の心で組み立てていくことが大切です。






















4 「有ったらいいな」でニッポンの核COREを創りましょう

 コンピュータと通信をあわせた情報技術ITは、新しモノ好きDNA のアメリカで大いに発展しました。どんどん新しい使い方と新しい名称を創りさえすれば、どんどんビジネスになるからです。もちろん全てということではなく成功の大きさは様々ですが。「この技術を使って」何をする、どういうビジネスモデルでどうお金に換えるかに心を砕いた結果です。こういうアプローチは日本人には似合いません。日本人は「あったらいいな」の思いをかたちにしていくのが得意技だからです。

 成功した商品のキーワードはヒューマンインターフェイスです。技術の使い方は同じでも人間との関係つまり、見て綺麗、さわって楽しい、面白い、楽ちんといった商品が大きく成功します。画面に向かって小さな絵をアクセスすれば操作できるウィンドウズ、指でなぞるのがとってもスマートに見えるスティーブジョブスの作品。ハイブリッドも当初は乗っている人はエコ社会のリーダーに見られましたが、経済的な理由もさることながら給油の手間が省けるのが喜ばれました。経済学からはブレイクスルーだとかイノベーションだとか流行語が生まれますが。単純に、モノとヒトとの絆を創ることが喜ばれる、という当然の摂理に基づいています。

 どの商品カテゴリーにもマーケットを創造した核(CORE)商品が存在します。CORE 商品を創ることは意図して創る場合と造ってみて市場ができてしまう偶然の産物もあります。

 日本が創ったマーケットとして携帯音楽プレヤー、ウォークマンが有りますが、ソニー創業者井深大が旅先に大きなテープレコーダを持って行ったことが始まりです。テープレコーダーは録音機として創られましたので、何を録音するかにばかりマーケットが意識されていましたが、録音されたものを再生することだけに限定して使うという、当時で言えば大変贅沢な使い方でした。過去になく世の中に無かったので、これをブレイクスルーと呼ぶのでしょうが、井深大の持ち歩きしやすい音楽再生器が「有ったらいいな」の想いが出発点です。

 即席カップ麺、カップヌードルにつながる安藤百福チキンラーメンも、当時長い行列に並ばないと食べられなかったラーメンを家で簡単に作れる、即席ラーメンが「有ったらいいな」の想いからです。日本では箸がありますが、アメリカには箸がない、フォークで食べられるラーメンが「有ったらいいな」でした。

 ハイブリッドカーも中村健也が「有ったらいいな」で古くから研究開発を進めていて、コンピュータの小型化と低価格化により実現できました。モーターとエンジンふたつの動力源を持ちますのでその使い方を制御する自動機械つまりコンピューターが必須なのです。中村健也は自前で自宅にコンピュータを備えるほどコンピュータに理解が深かったからこそ先が見えました。技術が後からついてきたという特異な事例です。ほとんどの場合「有ったらいいな」の想いを形にする職人力ですぐに製品そして商品に仕立てます。

 ウォークマンカップヌードルハイブリッドカーも、欧米の技術起点からは「有り得ない」と考えられていた商品です。

 アメリカでの日本車マーケットの創られ方には興味深いものがあります。最初に輸出したのは中村健也のクラウンでしたが高速道路で苦労しました。当時日本には高速道路が無いに等しかったからです。最初の成功はダットサンという小型トラックです。大規模農家で重宝されました。フルサイズセダンと大型トラックとトラクターを使って大きな農場を経営していましたが、休日に模型飛行機やらモーターボートやらを積んでふらりと出かけたり、日常の足いわば屋根のついたバイク替わりに使われ広まっていきました。アメリカには新しモノ好きが多いので見てすぐ分かる商品は広まるのも早いです。多くの人が長く使っているうちに故障が少なく壊れにくいことが広まりました。あとに続いた日本製乗用車は安心感を持って受け入れられました。

 もうひとつマーケットを創れた事例があります。パジェロランドクルーザーといったSUVです。車高が高く悪路に強い四輪駆動車はオフロード用に使われていました。トラックと同じと見なされホテルなどには立ち寄れなかったものです。例外として貴族の狩猟用レンジローバーが有りましたが。。名古屋市南区でクラウンとランドクルーザーを持った開業医がいらっしゃいました。使い方をたずねると、ランクルは休日に名神高速をかっとばす、そうおっしゃいました。ランドクルーザーのワゴンタイプを乗用車に近いものにするモデルチェンジ構想がありました。中近東やアフリカでは道路が十分に整備されていないので、使い方は高級乗用車として、でした。国内マーケットを創れるか議論が白熱していましたが、「あったらいいな」と思えるお客様が現に存在する、だから「やってみよう」でした。

 その後パジェロなど同じカテゴリーの商品が現れ、SUVスポーツユーティリティヴィークルと名づけられました。パジェロなどはスタイリッシュでしたので、セダンに飽き足らない若者にはファッショナブルに映りました。

 しかし一過性の流行ではなくマーケットとして確立した理由がずっと長らく分かりませんでした。分かったのは最近の脳科学の進歩からでした。人間の脳は見ることから最も大きな影響を受ける。動く景色は脳にとって嬉しく刺激的なものだそうです。

 もうひとつヒントは舘内端の著作にありました。T型フォードが爆発的に売れた理由、言い換えれば乗用自動車が爆発的に浸透した理由です。運転席に乗ったドライバーも横に座った同乗者もフロントウィンドウに流れる動く景色がとても新鮮で嬉しく刺激的だった、ということだそうです。

 では何故日本で広がったのか、答えは高速道路に有りました。欧米のハイウエイのサイドウォールはとても低いのです。高さの低い乗用車でも十分に動く景色を楽しめます。しかし日本の高速道路は背の高い自動車でないと景色が楽しめません。加えて渋滞が多く、低い自動車では閉じ込められ感が強まります。レクサスはアメリカで日本名ハリアーにより台数的な成功を収めました。スタイリッシュなSUVという新しいマーケットを創造しました。

   ニッポンはいくつも産業の核COREを創ってきました。トランジスタラジオ、ウォークマン、ビデオ、カラオケ、カップヌードル鉄腕アトム、ノート型パソコン、小型乗用車。。。これからも創っていけるはずです。

 創造力あふれる人にとっては楽しい時代になってきました。決まり切ったことを間違いなく行うことより、過去にない世の中にない何かを探したり創り出したりすることが世のため人のためになる、そんな時代の到来です。これまで未来は予測するものでした。情報をくまなく集め、細心の注意を払い論理的に分析すれば未来が予測できました。逆に創造性豊かな人にとっては退屈きわまりない、そんな時代でした。決まり切ったことや、間違いなく片付けるにはコンピューターやコンピューターを使った機械つまりロボットにまかしておけば済む時代が目の前にあります。

・日本流の創造は「有ったらいいな」という想い、真心を形にすることではないでしょうか。そして「までい」真手でこしらえる。ニッポンには名人がたくさんいらっしゃいます。






















   いくつかの心に留めておくべき日本人の心情が有ります。

ヒトの行動は、気持ち、想い、から発します。情動の強さでも有り、心ならずも。。と言う弱さでも有ります。




「おもい」真心を「までい」真手で

 物にも心を感じる、生きとし生けるものを大切にする。
創造力を発揮するにいたる動機が、物への感謝であったり生き物を大切にする気持ちであったりします。これは日本人ならではないでしょうか。「柿ノ木をかわいそう」と感じたり「柿ノ木に感謝する」「柿ノ木を活かす」新聞バッグも「川の生き物が困る」と感じることがはじまりになりました。環境という言葉はいつからか、環境問題というような使われ方になりました。「もったいない」とか「かわいそう」といった気持ちで周りにある生きとし生けるもの、動物であれ植物であれ、をあまねく大切に思う気持ち。これは人類の生存があぶないから環境を守る、という環境問題発想とは少しニュアンスが違うと感じます。



「みんな」で一緒に考えて「やってみる」

 男の石鹸はおばあちゃん仲間、新聞バッグはおばちゃん同志で工夫し作ってみました。エマミュエル・トッドの人口分析学による分類では日本人は家族主義では有りません。家族も大切ですが地域の仲間を重んじて、助け合いをする行動が身についています。折り紙のワザを買物袋に応用するのもユニークです。




心意気   心の粋ですね、

 新聞バッグ、海外からの引き合い、多分お金儲け的にはオイシイ話だったでしょう。しかし本来の目的エコから考えて「おことわり」。トランジスタラジオをアメリカに売りに行ったソニー盛田昭夫がブローバ社に10万台のオファーにも関わらず、OEM(相手先ブランド)を「おことわり」した心意気に通じます。お金より心を大切にする日本人の気高い気風ではないでしょうか。




海外から来るものは良いものという発想

 後日談ですが、新聞バッグ。海外からの反響が相次ぎ、そのため国内でも盛り上がりを見せ始めたそうです。航空会社グループがファーストクラスの古新聞を集めてお洒落な買物バッグをこしらえようという動きが起こってきているそうです。大陸の米文化の到来にはじまり、中国・韓国文化そしてヨーロッパ文化と、日本人は舶来ものを重く受け止め、しかしきちんと咀嚼して内在させて育ててきました。



それぞれ良い面と悪い面が有ります。
しかし日本人として自覚しておいたほうが良い事だと考えています。

こころしておくべき事、と言う訳です。


おわり