アメリカ人と日本人(日下公人さんのを引用)

アメリカの「仕掛け」にすべて乗る必要はない』
アクションとは「人にやらせる」こと


 「理想主義」の深淵に位置するトーマス・モアは、経済学者などではなく法律家であった。法律家の偉いところは、「アクション(action)」をするところだ。ギリシャ人は人間のすることを「レーバー(labor)」「ワーク(work)」「アクション(action)」に分けた。アクションはその最上位に位置する。この3つの区別を知らないから、日本人はさんざんだまされて損をしている。

 古代ギリシャには3層の階層があった。一番下が奴隷で、次に一般市民がいて、その次に支配階層、つまり貴族がいた。だから「働く」といっても3つの種類があった。「レーバー」は奴隷が言いつけられてする働きで、「ワーク」は中流階級の市民が、自分の好きなことをするものだった。そして「アクション」をするのは、貴族だった。

 アクションとは、「人にやらせる」という意味。つまり、自分がやるのではない。他人がやることを見下していう考え方なのだ。だから法律のことを「アクト」と呼んだりするわけだ。人にやらせるから「アクト」なのだ。

 その語源を思えば、われわれ日本人がアメリカに「アクションプラン」をつきつけられたときには、即座に「ふざけるな」と言わなければならないのだ。ところが日本の官公庁などは、「アクションプランのとおりにやれ」と言われたら、単に条件闘争だけをする。大筋はのんでしまっておいて、部分的に「日本はすぐには無理です」などと主張する。これではもう、完全に負けている。

 「アクト」をつくって人に押しつける人のことを「アクティブな人」というだろう。活動家など、人にやらせる人のことだ。だが日本では、上に立った人は「よきにはからえ」といって、自分はアクションしない。アクティブでない人は、逆に評判がいいのだ。


ユートピア」は性善説で成り立っている

 トーマス・モアは、1516年に『ユートピア』という小説を発表した。ちょうど君主制に対する不満がたまっていたときだったので、彼は「理想の国があれば、こうではない」と君主制批判を書いた。ユートピアとは「どこにもない場所」という意味で、英語でいえば「Nowhere」にあたる。トーマス・モアは、「こんな国はどこにもない」と断った上で、自分の理想とする国の姿を描き出したわけだ。

 このような“理想”を読んで、「なるほど、自分がそれを実行する」という人は出てくるものだ。例えば同志を集めてボランティアでやるのもあるし、会社の社長が「この会社だけはユートピアにするぞ」とやるのもある。しかし、それらはあまり長続きすることがない、と僕は思う。その人が生きている間はいいが、やがてダメになることが多い。

 これはつまり、「性悪説」と「性善説」の問題だ。ユートピアをいう人はみんな性善説で、本当に性善の人だけ集めればユートピアをつくることはできるはずだ。だが、やがて便乗する人が集まってきてしまう。自分だけ得をしようとする性悪な人が集まってきてしまって、結局ダメになってしまうのだ。

 そういう点では、日本という国は実に成功していたといえるだろう。国全体がユートピアになっていた。便乗しようとする人が少なく、みんなきちんとワークしていて、誰かに言いつけられても「これが自分のワークだ」と思ってレーバーを果たす人がたくさんいたのだ。


マルクスに続く理想主義はアメリカから来る

 ヨーロッパのユートピア思想は、やがてマルクスの「科学的社会主義」に引き継がれた。マルクスは自分より前の人は全部「ユートピア社会主義」だとして、彼らはダメだと決めつけたが、マルクス社会主義も結局は絵に描いた餅だった。同じように理想主義だったのだ。

 マルクスに続く理想主義は、今、アメリカから来ていると私は思っている。「アメリカから来るなら共産主義ではないんだから、いいじゃないか」と言ったところで、中身の本質は同じ。ようするに決めつけなのだ。きわめて空虚なことを高飛車にいうのだ。グローバル・スタンダードとか、国際会計基準とか。「みんながやっている」といわれると、日本人は「そうか」と真に受けてしまう。

 だが、世界中みんながそれをやっているなんてことがこの世にあるわけがない。腹が減ったら食べるとか、夜になったら寝るとか、その程度のものだ。会計制度が世界中で1つにそろっているはずは絶対にない。聞いたとたんに「怪しい」と思うのが、健全な常識だろう。

 時価会計の導入でも、アメリカは「世界中がやっているから」といったが、実際にはそんな国はアメリカしかなかったそうだ。世界中でやっているのは、簿価か時価か社長が選ぶこと。ようするに、日本の会社を揺さぶってつぶして、安く買おうという人たちが、陰謀で時価会計などと騒ぎ立てたのだろう。


人をだましても後ろめたさがない国
 アメリカ人などは、悪巧みを「インテリジェンス」と呼ぶ。「人間は知性と理性を神からもらった」というのがキリスト教の考えだから、彼らは知性で陰謀をめぐらせて、人をだましてもうけることに後ろめたさがないのだ。だまされても気づかないのはバカだからで、自分が悪いのだからあきらめろ…これがマーケット・セオリーであり、グローバル・スタンダードである。

 彼らは子どものころから、早くインテリにならなければいけないと刷り込まれる。インテリとは言葉をしゃべることがまず第一。言葉をしゃべるとは、論理的に単語をつなげていくことだ。つまり“理屈をいう子ども”にならなければダメで、そうでないのは動物レベルだと考える。

 子どもたちは、イエス、ノーをはっきり言いなさいとしつけられる。「どっちでもいい」なんて答えると、「イエスですか、ノーですか、区切りをつけなさい」と叱られる。「どっちでもいい、わかんない」といったら、うちの子は知能程度が低い、これを何とかしないと世の中は生きていけない、と向こうの親は思うのだ。

 そうやって一生懸命鍛えられた人たちに向かって、日本のビジネスマンは、商談なのに「どちらでもいいです、お任せします」などと言ってしまう。だから向こうはバカが来たと思って、「お任せするなら、自分たちの好きにやってしまえ」となるのだ。それで日本のビジネスマンはびっくり仰天して「これはひどい」というが、「だってお任せすると言ったじゃないか」となる。これが日米貿易摩擦で、これを20年くらいやって、ようやく最近は日本人も、向こうとつき合うときは用心しなければならないと思うようになった。


アメリカの企業も“日本風”に合わせる時代
 しかし、その時期も過ぎて、最近は別の段階に入った。「アメリカ風取引をやるのが偉いとは思わない、やらないで済ませる方法はないものか」。つまり、心が通い合う会社とだけつき合うのだ。弁護士がいるような会社にはもう品物を渡さない、金は貸さない、最初からつき合わない。そういうふうに日本の会社も変わってきた。「日本風を変えるのではなく、日本風のままでいくぞ」というわけだ。まだ足りないとはいえ、それができるようになったのだ。

 なぜできるか。日本には技術力があり、新製品開発力がある。そして融資したり、投資したりする金がある。つまり日本は優位に立っているのだから、なにも向こうに合わせることはない。そう思ってやり出すと、なるほど、向こうが合わせてくる。これを民間経済界は経験した。日本に合わせた会社は向こうでも儲かって繁栄する。逆に“日本風”をやらない会社は、アメリカの中でお互いに共食い競争になっていく。

 そのアメリカ国内の共食い競争を見て、ヨーロッパはもうアメリカに投資しない、ドルなんか持たない、となった。それでアメリカは猛烈な金詰まりに陥って、ヨーロッパにある財産を売って持ち帰るということをときどきする。これをリパトリエーションというが、ブッシュの為替政策がときどきドル安容認となるのはそのせいだ。

 アメリカは金詰まりだ。これからもっとそうなるはずだ。金利も上がるはずだ。そうなる原因はただ1つ、真面目に取引しないからだ。相手をだまそうという取引をしているから、世界中が寄り付かなくなるのだ。